赤くなった目からこぼれ落ちた一粒の涙が、レンガ造りの家のような体格をした男の頬をゆっくりとつたった。21歳の彼の頭には、3月11日のあの日や、クランチタイムにスティールをした12月のミネソタ・ティンバーウルブズとのホームゲームの記憶がよみがえり、様々な思いがあふれ出した。
ドラフト外の2Way契約のルーキーからプレイオフチームのスターターへと変貌を遂げたオクラホマシティ・サンダーのガード、ルーゲンツ・ドートは、この14か月の自分の人生をリアルタイムで振り返っていた。
9月2日(日本時間3日)のNBAプレイオフ ウェスタン・カンファレンス1回戦、ヒューストン・ロケッツに敗れた第7戦で、ドートは30得点をあげた。それは、NBA史におけるドラフト外ルーキーの最多得点記録であり、サンダーのルーキーのプレイオフ記録でもあった。
その日の夜、オーランドのバブル(隔離施設)でドートの電話が鳴り続けている間、彼は、2019年6月20日のあの日――NBAドラフトの最中の一本の電話が、彼が望んでいた世界でたったひとつのものだったあの日――のことを思い出さざるを得なかった。
「ドラフトされなかったのはつらかった。でも僕はこのチームからたくさんの自信を与えてもらった」と、ドートは、感情を抑え、言葉を詰まらせながら言った。
「ベテラン選手のクリス(ポール)、デニス(シュルーダー)、ガロ(ダニーロ・ガリナーリ)、スティーボ(スティーブン・アダムズ)や、コーチ・ビリー(ドノバン)、サム(プレスティGM)が、とにかく僕にたくさんの自信を与えてくれて、僕のことをすごく信頼してくれた。ここにいられるだけで、モントリオールから来て、みんなとここにいられるだけでありがたいと思っている」
激動のシーズンの始まり
サンダーの全員にとって、今シーズンが始まったのは、340日前の9月30日にトレーニングキャンプのためにチームが集合したときだ。ロッカールームには新加入の選手が8人いて、ジェネラルマネジャー(GM)兼副社長のサム・プレスティからは、サンダーが組織として方向転換をしようとしているという明確な方針が打ち出された。
オフシーズンの2つの大型トレードで、サンダーはドラフト指名権を多数獲得して将来に備えた。また、ドートや、2年目のスターガードであるシェイ・ギルジャス・アレクサンダー、そしてフォワードのルーキーで、NBAへの異例のルートを選択したため比較的知られていなかった有望株のダリアス・ベイズリーのような若手選手を揃えた。
さらにサンダーは、その2つのトレードで、スティーブン・アダムズとデニス・シュルーダーというチームの重要なメンバーとともに戦う、2人のベテランを確保した。それが、3PシューターとしてNBAで長く活躍するダニーロ・ガリナーリと、将来の殿堂入り確実とされるポイントガードで、現NBA選手会会長を務めるクリス・ポールだった。
シーズン中、球団に何が待ち受けているのか、それがトレードの可能性であれ、ローテーションの変更であれ、もしくは出場時間の議論であれ、はっきりしたことはわからなかったが、プレスティGM、ビリー・ドノバンHCとポールは、初めから互いに明確なコミュニケーションを取るという方針を打ち出した。秘密も隠れた思惑もなしで、腹を割って率直に話し合うのだ。
様々な人間が関わるほかの組織では、こういう状況で、物事が競争になったり、ぎこちなくなったりすることがとても容易に起こるだろう。
ポールは非常に有名で、ディズニーのCEOであるボブ・アイガーのような人々と関係があり、全国放送のテレビコマーシャルにも主演するほどだ。シュルーダーは、キャリアの絶頂にいて、昨シーズンにベンチからの出場を依頼されてはいるが、スターターレベルの選手だ。ギルジャス・アレクサンダーは、クリッパーズとのチーム間トレードでやってきた貴重な若手選手で、チームの長期計画における主要な存在になると期待されている。
人としても選手としても、それぞれに異なるアプローチや経験を持つ彼らには、共通していることがひとつあった。3人ともポイントガードなのだ。
ドノバンHCは、出場時間を巡って激しく争い、選手同士が対抗し合う可能性のある状況を作らずに、少なくとも2人、ときには3人全員が同時にコート上で司令塔の役割をすることで、このチームが成功できると明確に信じていた。
ポールは、シュルーダーとギルジャス・アレクサンダーを遠ざけるのではなく、むしろ自分の仲間として彼らを受け入れた。ギルジャス・アレクサンダーは、シーズンを通してポールのそばにつきっきりで、メンター(助言者)のポールから与えられるすべてを吸収した。(親しくなった)2人が冗談を言い合うときには、びっくりするほど辛辣な言葉のひとつやふたつを投げ合うこともある。ポールとシュルーダーは、競争意識の高さでつながっていた。どちらの選手も試合の最中に内なる闘志の炎が燃えていて、彼らはお互いに、クランチタイムで同志としての姿を見出していた。
チームをひとつにしたターニングポイント
前述の12月のティンバーウルブズ戦で、サンダーのポゼッションを取り戻すためにドートがボールにダイブしたあの夜のあの試合が、今シーズンのサンダーのターニングポイントになった。アダムズが高々と放った85フィート(26メートル)のパスがシュルーダーの手元に正確に落ち、シュルーダーはフェイントをしてブザーの瞬間に得点を決め、試合をオーバータイムに持ち込んだ。そして、そこからシーズンを通してずっと続く、チームのクラッチタイム・マジックが始まった。
ポールとシュルーダーは、12月から3月までの間、試合終盤になると交代で大量得点をあげているようだった。彼らのその活躍があって、レギュラーシーズン中のサンダーは、クラッチタイムで30勝をあげるという記録を作り、6勝11敗だった成績からその後シーズンが中断されるまでの間を34勝13敗と勝ち越した。得点には全員が絡み、ディフェンスではコミュニケーションを欠かさず、サンダーには常に勝つチャンスのある試合をしていた。12月には、ドノバンHCが月間最優秀コーチにも選ばれた。
サンダーはさらに、アウェイの試合で9連勝してOKCの記録を作り、11月28日(日本時間29日)の感謝祭から2月2日(同3日)のスーパーボウルサンデーまでの間に、24勝9敗というリーグ2番目の最多記録を残した。
そして月日が経つにつれ、外部の予想屋にウェスタン・カンファレンスの下位になる運命だと見なされたチームは、プレイオフの枠に定着するようになっていく。
サンダーを勝利に導くというプレッシャーと、カリフォルニア州に残してきた家族と、選手会の会長としての責任を抱えていたにもかかわらず、ポールはチーム全体のためにも時間を割いていた。彼はチームの選手全員にカスタムスーツを購入し、12月18日(日本時間19日)、24得点差を逆転してメンフィス・グリズリーズを倒した夜には、選手は揃ってそのスーツを着用してアリーナに現れている。
1月の遠征中のオフには、ポールはチームメイトを引き連れて、NFLプレイオフのフィラデルフィア・イーグルス対シアトル・シーホークスの試合観戦をしている。ポールはまた、シーズン中の貴重な休みを使って、何人かの選手と一緒にGリーグのOKCブルーの試合のコートサイドに座り、そこで戦う若手選手を応援しているところがニュースにも取り上げられた。
新型コロナウイルスの大流行が襲ったときには、ポールはNBAバスケットボールを再開する手段を交渉する最前線にいて、ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートでバブルを構築する手助けをしていた。メモリアルデーにジョージ・フロイド氏がミネソタ州ミネアポリスで殺害されたあとには、国民全体が、黒人のアメリカ人を対象とした人種的不公平と警察の残虐行為に関して重要な議論を交わすようになっていった。そしてポールとチームメイトは、ソーシャルグッド(社会貢献に関する活動を支援・促進する取り組み)を目指し、家族とコミュニティから数週間離れてバブルで過ごすことを選択した。
しかしそれは同時に、極めて重い話題についてフェイスタイムを使って子供たちに説明することを意味していた。バスの中で、ロビーで、食事をする部屋で、ロッカールームに向かう途中で、世界中のあちこちに家族がいる選手たちは、常にフェイスタイムを使っていた。チームメイトたちは、ホテルの部屋という閉鎖的空間から精神的に逃れ、友人や家族とのつながりも維持しようとしていた。時にその電話は、言葉を交わすこともなく、ただ一緒の時間を過ごすだけのものになることもあった。
8月後半、ジェイコブ・ブレイク氏の銃撃事件のあとにプレイオフが延期されてから、バブルで選手たちをひとつにまとめるのを手助けしたのも、ルーキーのベイズリーを引き連れたポールだった。彼はNBAのコミッショナーであるアダム・シルバーとの関係を活用して、NBA組織に地元の投票権のイニシアチブへの協力を要請し、プレイオフを元に戻すよう努めた。
あらゆる責任を背負ったクリス・ポール
ポールの過去12か月から考えると、ポールはほかの誰よりも、NBAバスケットボールのことや、サンダーのこと、この国の平等を生み出すことや、彼らの家族のことについて気にかけているようだった。それらのすべてが最高の状態になるように、チームメイトのサポートを受けながら、彼は全力で自分が背負えるだけの責任を負ったのだ。
必死の努力とむき出しの感情にあふれたヒューストンとのプレイオフシリーズでは、サンダーはロケッツが量産する3Pに動揺することなく、落ち着いて冷静に戦うことで、0勝2敗と2勝3敗という逆境から反撃をした。
22歳のギルジャス・アレクサンダーは第3戦で、最後の最後に3Pを決めてオーバータイムに持ち込んだ。シュルーダーは第4戦で、非常に重要なレイアップを決めて勝利を奪い取った。ポールは第6戦で、2つの3Pを沈め、2つのスティールと2つの勝ち越しのフリースローも決めて逆転勝利を完成させた。
OKCは第7戦でプレイする権利を得たものの、シュート1つとディフェンスでのストップが1つ足りず、2回戦進出は果たせなかった。
「シーズンを通してずっと、僕たちは一生懸命戦ってきた。明らかにたくさんの人たちが僕らのことを疑っていた。でも僕たちは自分たちのことを疑うことはなかった」と、下を向いて声を震わせながら、ポールは話した。
「どのシリーズでも、どの試合でも、ほかの誰かがする予測なんか、僕たちは全然気にしてなかったんだ。僕たちは勝つと思っていた。シーズン中ずっと、そうやって僕たちはプレイしてきたんだ。どの試合も、勝つつもりでいた」。
OKCのファンは、サンダーの選手と同様に、プレイオフでつらい敗退をしたあとになかなか消えないこの気持ちが、NBA体験の大部分を占めることを知っている。この痛みを感じる特権を得るためだけに、10月末から春までの何か月もの間、チームと選手は並々ならぬ努力を重ねる。29チームにとってのシーズンは敗北で終わる。15チームにとってはプレイオフで敗退して終わる。さらに少ない数のチームにとっては、9月2日(日本時間3日)の第7戦で104-102でサンダーが負けたように、シーズンは突然、悲痛な終わりを迎えることになる。
プレイオフ出場を逃したチームと早々に敗退したチームは、これとまったく同じ傷を感じるということはない。しかし、どれだけ痛みを感じたとしても、できるものならプレイオフに出たいと願うことだろう。機会を逃したことに大きな痛みを感じるのは、その内側に偉大なチームが潜んでいることの表れなのだ。
深い傷は、名誉の印に
ほぼ12年前の2008年の9月3日、オクラホマシティのダウンタウンにあるリーダーシップスクエアで、サンダーのロゴが正式に発表された。3勝29敗というスタートを切った、新参者のサンダーは、この12年にわたる歴史の中で、そのうち10回ポストシーズンへ進出するチームへと変わってきている。今回のような1回戦のときも、2012年のNBAファイナルのときも、どのポストシーズンにおいても、その終わりはチームと街にとって共通の傷痕として残る。
しかし、この深い傷は同時に、素晴らしい経験で満たされたもう一つのシーズンの記憶として、誇らしげに胸に飾る名誉の印でもある。どの街のファンにとってもそうだが、なかでも特にOKCのような、この12年の間、このサンダーというチームをとても深く受け入れてきた場所のファンにとって重要なのは、自宅やチェサピーク・エナジー・アリーナから自分たちが応援する選手やコーチが、自分たちと同じくらい、あるいはそれ以上に、結果にこだわり、試合に勝つことを大事に思っていると心から感じられることだ。
9月3日(日本時間3日)の早朝、第7戦のことが頭から離れず、仰向けになって天井を見つめていたオクラホマシティにいるサンダーファンと同じように、ポールはオーランドのバブルの中でまだ起きていた。彼はサンダーのスタッフを2人探し出し、オクラホマシティとそのファンに対して、今シーズンを通してサポートしてくれたことに対する感謝のメッセージを録音したいと伝えた。
ポールはそのとき、すでに抱えきれないほどの多くの責任を抱え込み、そして一夜明ければ、8週間もの間離れ離れだった家族との再会が待っている状況だった。
にもかかわらず、ポールの頭に一番に浮かんでいたのは、9月1日(日本時間2日)の第6戦のようなスリリングな勝利のときも、3日(同4日)の第7戦のような呆然とする敗北のときも、彼と彼のチームメイトをサポートしてくれるオクラホマと世界中にいる人々のことだった。
サンダーファンが、この48時間と、遠征チームがバブルで過ごした57日間、そして今シーズンの340日にわたって目の当たりにしてきたのは、今シーズン、このチームの選手たちがオクラホマシティにいることを心から愛していたという確たる証拠だ。彼らは、このサンダーというチームの一員であることを心から大事に思っていた。
「このチームの仲間とは、生涯続くつながりや絆ができたよ」と、ポールは言う。
OKCにいるファンも、それは同じだ。
原文: What A Season Means by Nick Gallo/OKCThunder.com (現地9月4日掲載)
翻訳: YOKO B Twitter: @yoko_okc