F1ブラジルGPのサーキットにその名を冠したドライバー、ホセ・カルロス・パーチェとは?

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日本時間11月12日(土)未明のFP1から始まるF1(Formula 1)ブラジル(サンパウロ)GPのホームサーキット「アウトドローモ・ホセ・カルロス・パーチェ」の由来となったドライバーについてご存知だろうか。そのブラジルの英雄的存在について、本誌スペイン語記者のマウロ・マリアーニ(Mauro Mariani)が解説する。

アイルトン・セナ以前のブラジリアンF1ヒーロー

ブラジルは、F1カテゴリーに31人のドライバーを輩出し、その31人の通算で101勝、計8回の世界タイトル獲得という誉れ高い歴史と実績を持つ国である。

チコ・ランディは1950年代にこの道の先駆者となり、1970年代にはエマーソン・フィッティパルディ、ウィルソン・フィッティパルディの兄弟に加え、ホセ・カルロス・パーチェなどの若きドライバーたちがこの職業に就いた。

エマーソンはそのなかで(アイルトン・セナ以前に)最もF1で功績を残したドライバーであり、1972年と1974年の2度、世界チャンピオンの栄光を手にした。彼は11シーズンを戦い、通算14勝と35回の表彰台入りを果たしたが、兄ウィルソンは弟ほどの才能を発揮できなかった。また、彼らのライバルだったパーチェは、常にフィッティパルディ家の影に隠れることになったものの、それでも己の信じた道を歩んだ。

スポーティングニュースは、そんな日陰を歩みながらもF1の頂きを目指し、母国ブラジルGPの伝説的なサーキットにその名を冠すことになった、サンパウロ出身の男のキャリアを紹介する。

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エマーソンに次ぐ世界王者となるはずだった男

1944年にサンパウロで生まれたホセ・カルロス・パーチェは、幼少の頃からレース競技を始め、その才能を発揮した。1967年から1969年にかけて、耐久レースなどにおいてフィッティパルディ兄弟とのブラジル人ライバル対決が演じられた。当時、兄弟はパーチェの勢いを止めることができなかったという。フェッティパルディ兄弟が欧州シーンに進出すると、それを追うようにしてF3でキャリアをスタート。1971年には英国の実業家でレーシングチーム経営者のフランク・ウィリアムズに見出され、F2ドライバーに昇格した。

1972年、ウィリアムズ・マーチのシートに座ったパーチェは、同チームのマシン「マーチ711」で、第2戦南アフリカGPにおいてF1デビューを果たし、自身2レース目となる第3戦スペインGPで初ポイントを獲得した(16位スタートで6位入賞)。その年、彼は一連のマシントラブルに見舞われる前に、ベルギーGPで5位に入賞している。

翌年1973年にはサーティーズに移籍したが、同チームでもリタイアが続き、デビューイヤー以上に不遇に見舞われた。ただ、中盤戦から安定し始め、オーストリアで3位となり表彰台入りしている。一方でこの年のパーチェは、世界スポーツカー選手権にフェラーリのドライバーとして参加しており、好成績を収めていた。

1974年、シーズン途中で当時トップチームだったブラバム(マルティーニ)に移ると、アメリカGPで2位に入賞し、自身のF1キャリア最高位を更新。そして翌年、パーチェにとって最初で唯一の「祝賀会」の機会が訪れる。

ポールシッターのジャン=ピエール・ジャリエのリタイアに乗じて、のちに自身の名前が付けられることになる、インテルラゴス・サーキットでブラジルGPを凱旋優勝した。宿敵エマーソン・フェッティパルディに勝てない時期が続いたが、そのエマーソンを2位に抑えての勝利だった。パーチェにとって1975年は、モナコで3位、イギリスで2位に入賞するなど、キャリアハイのシーズンとなった。

やや低調だった1976年を経て、1977年は初戦のアルゼンチンGPで幸先よく2位を飾り、飛躍の年になると思われていた。だが、第3戦南アフリカGP後の3月18日、悲劇が彼を横切ることになった。パーチェは、ブラジルでの小型飛行機の事故により、32歳で命を落とした。機体は集中豪雨のなかサンパウロ南部のマイリポランで墜落し、パーチェを含め3名が亡くなった。

パーチェの突然の死には、ライバルのエマーソン・フェッティパルディを含め、F1業界からの哀悼の意と多くの賛辞が送られた。最も象徴的なものはサンパウロモーターカークラブのもので、インテルラゴス・サーキットの名称をパーチェの名に改めることだった。彼の遺骨は、1994年に死亡したもうひとりのサンパウロのレジェンドである、アイルトン・セナの墓(同年のサンマリノGPで事故死)の隣にある。

現代において、パーチェの名を与えられた「アウトドローモ・ホセ・カルロス・パーチェ」は、60000人の観客を収容する国際規格のサーキットとしてブラジルGP(サンパウロGP)でお馴染みの場所だ。

かつてはリオデジャネイロのジャカレパグア・サーキットことネルソン・ピケ・サーキットもブラジルGPで使用されていたが、1990年以降はカルロス・パーチェに固定された(老朽化したネルソン・ピケ・サーキットは、2016年リオ五輪の競技会場への建て替えため取り壊された)。

原文:¿Quién fue Carlos Pace? El piloto que le da el nombre al circuito del Gran Premio de Brasil
翻訳・編集:スポーティングニュース日本版編集部

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