NBAの国際化に向けて“見えざる壁”を壊したマヌ・ジノビリ&トニー・パーカー

Emanuel Ginobili Tony Parker San Antonio Spurs

NBAの国境を広げたふたり

一晩で実現したことではない。

国際的なスターの存在が例外的でなく普通――NBAがそんなリーグになったのは、長年にわたる無数の要因の結果だ。それは、多くの人が大きな影響を及ぼしたと考える1992年バルセロナ・オリンピックのドリームチーム以前にまでさかのぼる。そして、もうひとつの大きな出来事が、2003年のNBAファイナルだ。

17年前の6月15日(日本時間16日)、サンアントニオ・スパーズがNBAファイナル第6戦でニュージャージー・ネッツに88-77で勝利し、球団2度目の優勝を果たした。4年間で2度目のタイトルだったが、マヌ・ジノビリとトニー・パーカーにとっては初の戴冠だった。その後20年でNBAの“国境”を広げたふたりだ。

祝勝会でシャンパンに濡れたアルゼンチンの国旗とフランスの国旗をそれぞれ持っていたジノビリとパーカーの姿は、スパーズの球団史だけではなく、NBAの歴史においても重要なシーンとなった。

ある意味で、パーカーとジノビリのファイナルまでの道のりは、ふたりがほかの誰とも違う独特な役割を担っていくことになるその後の10年余りを示していた。

パーカーはキャリア2年目ながらも、ティム・ダンカンに続くスパーズで2番手のスコアラーで、ジェイソン・キッドと十分に渡り合っていた。彼はその後の約20年間、同ポジションの他スター選手に全く引けを取らないハイレベルなプレイを披露していく。

ジノビリは平均8.7得点、4.5リバウンド、2.0アシストと目を奪うようなスタッツではなかったものの、シリーズ(とプレイオフ全体)を終えたときのプラスマイナス(選手が出場時の得失点差)は、ダンカンも含めた他のスパーズ選手全員を上回っていた。決定的となった第6戦の第4クォーターでフル出場した彼は、6点のビハインドをはね返しての優勝に貢献した。その後の約20年間で、彼はシックスマンという役割を再定義し、ボックススコアが示す以上にインパクトを与えた。

ふたりがいかに素晴らしいキャリアを過ごしたのか、まずは以下から振り返ってみよう。

  • パーカー:オールスター出場6回、オールNBA選出4回、ファイナルMVP受賞1回
  • ジノビリ:オールスター出場2回、オールNBA選出2回、シックスマン賞受賞1回
  • 両者:ダンカンと一緒に優勝4回。NBA史上最も優勝したトリオ。

彼らが初優勝したのと最後に優勝したのが、同じ日にちだったのはロマンティックだ。そして、最初と最後に優勝リングを手にする間の11年間(2003~2014年)で、バスケットボールがいかに変わったのかを示している。スパーズがマイアミ・ヒートを倒した2014年の6月15日(同16日)は、11年前と比べて国際色が豊かになっていた。

この2014年NBAファイナルには、パーカーやジノビリのほかに、ボリス・ディアウ(フランス)、パティ・ミルズ(オーストラリア)、アーロン・ベインズ(オーストラリア)、ティアゴ・スプリッター(ブラジル)、マルコ・ベリネリ(イタリア)、そしてコリー・ジョセフ(カナダ)がいたのだ。

そして、その後の6年で、NBAの国際色はさらに強まっていく。


ノビツキーとガソルの舞台

Dirk Nowitzki Dallas Mavericks Pau Gasol Los Angeles Lakers

2003年に初優勝したとき、ジノビリとパーカーはようやくNBAにおける“補助輪”を外したところだった。欧州での経験は豊富だったが、ジノビリはルーキーで、パーカーは2003年のプレイオフ中に21歳の誕生日を迎えたばかりだった。

彼らはまだスターと呼べるまでになっていなかった。2002-03シーズンまでに正統な球団を代表するスーパースターとしての地位を確立していていた海外出身選手は、ダーク・ノビツキー(ダラス・マーベリックス)だった。

1988年のドラフトで9位指名されたドイツ人は、比較的スローなスタートを経て、オールスターの常連となった。パーカーとジノビリが優勝した2002-03シーズン、ノビツキーは2年連続でオールスター出場を果たした。このときを含め、ノビツキーは11年連続でオールスター出場を果たしている(2018-19シーズンの招待も含めて通算14回)。2000-01シーズンから2011-12シーズンまで、ノビツキーは1試合平均20得点超を記録し、12年間すべてでオールNBAチームに選ばれた。

安定、卓越、高品質のノビツキーは、通算得点ランキングで歴代6位にまで登り詰めた。2007年にはMVPを受賞。2005年と06年に連続受賞したスティーブ・ナッシュに続き、3年連続で外国籍選手がMVPに選ばれたのである(ナッシュは2007年も2位だった)。

2011年ファイナルでノビツキーが優勝を果たすと、外国籍選手を中心に勝つことはできないという薄っぺらい議論に終止符を打った。

もちろん、2009年と2010年にも触れなければならない。

2002年、パウ・ガソルは初めて外国籍選手として新人王を受賞した。アメリカで育ち、大学バスケで活躍したジャマイカ生まれのパトリック・ユーイングやバージン諸島生まれのダンカンと違い、ガソルはアメリカ国外で生まれただけでなく、完全に国際舞台から登場した選手だった。プレイオフのファーストラウンドを突破することのなかったメンフィス・グリズリーズ時代を経て、ガソルは2007-08シーズン途中にロサンゼルス・レイカーズに加入し、突如優勝の期待に応えたのだ。

2008年はファイナルでボストン・セルティックスに敗れたが、レイカーズはその後2009年、10年と連覇を遂げる。2010年はガソルが第6戦と第7戦で見事な活躍を見せ、コービー・ブライアントとファイナルMVPを争うとの声もあった。それはおそらく、2011年にNBAコミュニティ全体が成熟し、ノビツキーがファイナルMVPを受賞する前兆だったのかもしれない。

ガソルの役割を無視することはできない。パーカー&ジノビリとノビツキーの間の架け橋としてだけではない。その後10年にわたる外国籍選手の流入や、10シーズン中9シーズンで外国籍選手が主要タイトルを受賞することにつながったのだ。

  • 2001-02シーズン: ガソルが新人王
  • 2002-03シーズン: ジノビリとパーカーが初のNBA優勝
  • 2004-05シーズン: ナッシュがMVP受賞
  • 2005-06シーズン: ナッシュがMVP受賞
  • 2006-07シーズン: ノビツキーがMVP受賞、ジノビリとパーカーが2度目のNBA優勝
  • 2007-08シーズン: ジノビリが最優秀シックスマン賞受賞
  • 2008-09シーズン: ガソルが初のNBA優勝
  • 2009-10シーズン: ガソルが2度目のNBA優勝
  • 2010-11シーズン: ノビツキーが初のNBA優勝


NBAのグローバル化

Giannis Antetokounmpo

2003年までは、あり得そうにないことだった。

2年連続でのMVP受賞も有力視されており、リーグトップの成績を誇るチームのベストプレイヤーで、今後10年を支配するとみられるスーパースターは、ナイジェリアにルーツを持つギリシャ出身の選手だ。ヤニス・アデトクンボ(ミルウォーキー・バックス)は次代のNBAの顔となった。NBAが国際的アイデンティティを有したグローバルゲームへと進化した度合いを物語っている。

最初の一歩を踏み出したのは、ジノビリとパーカーだった。だが、おそらくは彼ら自身でさえ、振り返ってみて今のようになるとは想像できなかっただろう。アデトクンボ、ルカ・ドンチッチ(スロベニア/マーベリックス)、ジョエル・エンビード(カメルーン/フィラデルフィア・76ers)、ニコラ・ヨキッチ(セルビア/デンバー・ナゲッツ)、ベン・シモンズ(オーストラリア/76ers)、パスカル・シアカム(カメルーン/トロント・ラプターズ)、ルディ・ゴベア(フランス/ユタ・ジャズ)…リストは続く。

NBAにおいて外国籍の有望選手が増えていることは、我々の過去や今だけでなく、未来についても多くを物語る。2020年のオールスターに出場した7名の外国籍選手のうち、27歳のゴベアを除く6名が25歳以下だ。さらに、アメリカ生まれでリトアニア代表の24歳ドマンタス・サボニス(インディアナ・ペイサーズ)や、ドミニカ共和国代表歴のある24歳カール・アンソニー・タウンズ(ミネソタ・ティンバーウルブズ)といった選手たちもいる。

ジノビリとパーカーに始まった国際化の波は今後、NBAを席巻する“津波”となったのだ。


ドラフト戦略の変化

Luka Doncic

1999年のドラフトでは、ジノビリが指名されるまでに56選手が指名された。

2001年のドラフトでは、パーカーが指名されるまでに27選手が指名された。

どちらの年もドラフトをやり直すとしたら、ジノビリもパーカーも上位3位までに指名されるだろう。全体1位指名も考慮されるはずだ。

1990年代終盤まで、外国籍選手はドラフトでほとんど考慮されていなかった。1999年にバックスがノビツキーを全体9位で指名(直後にマーベリックスにトレード)したのは、アメリカの大学に通わなかった外国人選手が上位10位までに指名されたドラフト史上初めてのケースだったのだ。

各チームが“次のノビツキー”を追い求めた一方で、ドラフトにおける考え方の変化において同等に重要だったのが、ジノビリとパーカーの早くからの成功だ。

外国籍選手がすぐにインパクトを残すことはできないという恐れがなくなり始め、各チームはそれまでであれば同等のアメリカ人選手を指名していた順位で外国籍選手を指名するようになった。

確実なことは決してない。だが、2004年以降、上位指名された外国生まれの選手たちは決して少なくない。リストは以下の通りだ。アンドリュー・ボーガット(オーストラリア)やスティーブ・アダムズ(ニュージーランド)、エンビード、ラウリ・マルカネン(フィンランド)のように、アメリカの大学を経験している外国籍選手は含まない。

  • 2004年: アンドリス・ビエドリンシュ(11位、ラトビア)
  • 2005年: フラン・バスケス(11位、スペイン)、ヤロスラフ・コロレフ(12位、ロシア)
  • 2006年: アンドレア・バルニャーニ(1位、イタリア)、モハメド・セネ(10位、セネガル)、タボ・セフォローシャ(13位、スイス)
  • 2007年: イー・ジェンリェン(6位、中国)
  • 2008年: ダニーロ・ガリナーリ(6位、イタリア)
  • 2009年: リッキー・ルビオ(5位、スペイン)
  • 2011年: エネス・カンター(3位、トルコ)、ヨナス・バランチュナス(5位、リトアニア)、ヤン・ベセリー(6位、チェコ)、ビスマック・ビオンボ(7位、コンゴ)
  • 2014年: ダンテ・エクサム(5位、オーストラリア)、ダリオ・シャリッチ(12位、クロアチア)
  • 2015年: クリスタプス・ポルジンギス(4位、ラトビア)、マリオ・ヘゾニャ(5位、クロアチア)、エマニュエル・ムディエイ(7位、コンゴ)
  • 2016年: ドラガン・ベンダー(4位、ボスニア)、ソン・メイカー(10位、スーダン)、ヨルゴス・パパヤニス(13位、ギリシャ)
  • 2017年: フランク・ニリキナ(8位、フランス)
  • 2018年: ルカ・ドンチッチ(3位、スロベニア)

15年で23人だ。1998年から2003年までにも10人がいる。1998年のノビツキー指名までは、ゼロだった。NBAにおいて新時代の幕が開けるなか、2003年6月のあの運命の日から、現在の国際化に大きく影響したのだと知っておくべきだ。

メルシー、トニー。

グラシアス、マヌ。

原文:How Manu Ginobili and Tony Parker smashed the glass ceiling in the evolution of international NBA stars by Leandro Fernández(抄訳)​


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著者
Sporting News Editorial Team
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