NBAで初めて契約を勝ち取った黒人選手、ナット・クリフトン

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Nathaniel "Sweetwater" Clifton

NBAの『色の壁』を破った選手の歴史を遡れば、初めてNBAの試合に出場した黒人選手のアール・ロイドや、初めてNBAドラフトで指名された黒人選手のチャック・クーパーなどの名前に辿り着くだろう。

しかし、NBAが今の多様性溢れるリーグとなった裏に、3人目のパイオニアが存在することも忘れてはならない。

アーカンソー州生まれシカゴ出身のナサニエル(ナット)・"スウィートウォーター"・クリフトンの名が全米に広がったのは、ウィンディシティ(シカゴ)というレベルの高い地域で、高校生として大活躍した時のことだ。「スウィートウォーター(甘い水)」というニックネームは、彼が子供の頃からソーダが大好きだったことに由来している。

シカゴのデュサブル高校でバスケットボールと野球の両方でスター選手として活躍したクリフトンは、201cm、107kgのパワーフォワード、そして一塁手として、プロの世界で活躍することを運命づけられた存在だった。高校時代、バスケットボール選手として最も記憶に残る活躍は、1942年の州大会準決勝だ。クリフトンは当時の州大会記録だった24得点を凌駕する45得点を獲得し、多くの大学スカウトの注目を浴びた。

その後、ゼイビアー大学(ルイジアナ)に進学し1シーズンをプレイしたものの、第2次世界大戦中だった1944年に米国軍の徴兵を受けたことで、彼のスポーツキャリアは3年間の空白の時間が経過することとなる。1947年にアメリカに帰国した25歳のクリフトンは、黒人だけで構成されたプロバスケットボールチームとして有名な、ニューヨーク・レナサンスに入団した。

そこで1シーズンをプレイしたクリフトンは、同じく黒人だけで構成されたプロバスケットボールチームのハーレム・グローブトロッターズに、1万ドルの契約で勧誘される。この契約で、クリフトンは当時の黒人バスケットボール選手としては最高年俸選手となっている。

グローブトロッターズで3シーズン活躍したクリフトンは、オフシーズン中にはニグロ・リーグのシカゴ・アメリカン・ジャイアンツでプロ野球選手としてプレイ。どちらのスポーツも愛していた彼だったが、パワーフォワードとしての多様なスキルが際立ち、彼を欲しがるバスケットボールチームは次第に増えていった。

1950年、公民権運動がピークに達している中、ボストン・セルティックスが先述したクーパーを全体14位で指名したことで、NBAは『色の壁』を打ち崩した。さらに全体100位でも、ワシントン・キャピトルズが先述したロイドを指名している。

それと同時に、グローブトロッターズとの最終シーズンを終えたばかりのクリフトンの獲得を目指し、ニューヨーク・ニッカボッカーズ(ニックス)がグローブトロッターズのオーナーにオファーを提示。ニッカボッカーズはグローブトロッターズに1万2500ドルを支払い、そのうち2500ドルをクリフトンが受け取ったことで、彼はNBA史上初めて契約を結んだ黒人選手となったのだ。

ブラウン対教育委員会(1954年)、ローザ・パークスがバスで座席を譲ることを拒否(1955年)、有色人種の投票権を奪うことを違法とする公民権法(1957年)といった歴史的な出来事よりも何年も前であることから、NBAにおける人種的前進は衝撃的なものとなった。

しかし、リーグやチームが人種統合の準備ができていたとしても、本拠地の街やファンがその一歩を踏み出す準備ができていたかといえばそうではない。結果的に3選手とも、NBAキャリア開始とともに多大な人種差別を受けることとなった。

クリフトンの娘であるジャトーン・ロビンソン・スウォープスは、「チームからは酷い扱いを受けなかったものの、行く先々では決してそうではなかった」と2020年2月に行なわれた『The Undefeated』のマーク・J・スピアーズ記者によるインタビューで語っている。彼女によると、クリフトンは遠征先でチームメイトと別のホテルを利用することを強要され、対戦相手のファンから人種差別的中傷を浴びせられ続けた。

そんな偏見と差別の中でも、クリフトンは直ちにNBAで活躍を見せる。

リーグ入りして最初の3シーズン中2シーズンで平均ダブルダブルを記録し、ニッカボッカーズが3年連続でNBAファイナルに出場するのに大きく貢献。ニッカボッカーズが1951年にNBAファイナルに出場した際に、クリフトンは黒人選手として初めてファイナルの舞台に立つ選手となったのだ。

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そんな活躍を残しながらも、肌の色の影響でNBA選手としてのポテンシャルに蓋をされている感覚があったと、クリフトンはのちに『AP』に語っている。

「私は得点できる。グロービーズ(グローブトロッターズ)でもゼイビアー大でも私はオフェンスの選手だった。しかしNBAでは、サイズと力があったことから、(ジョージ)マイカン、ドルフ・シェイズ、ボブ・ペティット、エド・マッコーリーといったビッグマンを相手することが増えていった」。

「それに自分用のセットプレイというものはなかった。チームで唯一の黒人ということもあって、もっとボールがもらえなかったのは、他の選手たちは自分たちがどうチームに残れるかを重視してプレイしていたからだと思っている」。

それでもスウィートウォーターはニッカボッカーズでの7シーズンで平均10.3得点、8.5リバウンド、2.7アシストという素晴らしいキャリアを送っている。1957年のニッカボッカーズとの最終シーズンにはオールスターにも選出された。その後フォートウェイン・ピストンズ(現デトロイト・ピストンズ)にトレードされ、1シーズンをプレイしたのちにNBAから引退。グローブトロッターズでさらに2シーズンをプレイしたものの、ひざのケガで現役引退を余儀なくされた。

1990年に亡くなったクリフトンは、それから24年後の2014年に、リーグの人種統合を推し進めた先駆者としての評価が認められ、ようやくバスケットボール殿堂入りを果たしている。

バスケットボールに大きな影響を残した選手たちのことを連想する際に、NBAのビッグスターに惹かれることは当然のことではあるが、ロイド、クーパー、そしてナット・クリフトンというパイオニアたちがいたからこそ、今のリーグがあるのだということを忘れてはならない。

原文:Nat Clifton: The first Black player to sign an NBA contract by Kyle Irving/NBA Canada


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Kyle Irving is an NBA content producer for The Sporting News.
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