ドリームチームの選手選考は正しかったのか?
マイケル・ジョーダンとシカゴ・ブルズが優勝した1997-98シーズンを追ったドキュメンタリーシリーズ『The Last Dance』(邦題『マイケル・ジョーダン: ラストダンス』/Netflix)の第5話では、“ドリームチーム”として知られる1992年バルセロナ・オリンピックの男子バスケットボール アメリカ代表チームが登場する。
多くの人が最も偉大なタレント集団と考えるこのドリームチームは、同オリンピックで金メダルを獲得した。8試合すべてで勝利し、点差は平均43.8得点。すべての試合で30点差以上をつけている。
ドリームチームは国際バスケットボールの新時代の先駆けとなった。それまでのFIBA(国際バスケットボール連盟)の規則では、NBA選手を含むプロ選手のオリンピック出場が禁じられていたからだ。1989年4月のルール変更が、アメリカのバスケットボールが世界的なセンセーションとなるこのチームを結成する道へとつながった。
1991年9月21日(日本時間22日)、ドリームチームの最初のメンバー10名が発表される。マジック・ジョンソンとラリー・バードが共同キャプテンとなり、ジョーダン、スコッティ・ピッペン、チャールズ・バークリー、カール・マローン、ジョン・ストックトン、クリス・マリン、デイビッド・ロビンソン、パトリック・ユーイングが加わった。
1992年5月12日(同13日)、最後の2枠にクライド・ドラクスラーとクリスチャン・レイトナーが選ばれる。レイトナーは唯一の大学選手(当時デューク大学)としての選出だった。
選手 | ポジション | 年齢 | チーム |
チャールズ・バークリー | フォワード | 29 | フェニックス・サンズ |
ラリー・バード | フォワード | 35 | ボストン・セルティックス |
クライド・ドラクスラー | ガード | 30 | ポートランド・トレイルブレイザーズ |
パトリック・ユーイング | センター | 30 | ニューヨーク・ニックス |
マジック・ジョンソン | ガード | 32 | ロサンゼルス・レイカーズ |
マイケル・ジョーダン | ガード | 29 | シカゴ・ブルズ |
クリスチャン・レイトナー | フォワード | 22 | デューク大学 |
カール・マローン | フォワード | 29 | ユタ・ジャズ |
クリス・マリン | フォワード | 29 | ゴールデンステイト・ウォリアーズ |
スコッティ・ピッペン | フォワード | 26 | シカゴ・ブルズ |
デビッド・ロビンソン | センター | 27 | サンアントニオ・スパーズ |
ジョン・ストックトン | ガード | 30 | ユタ・ジャズ |
NBA選手が11人、大学選手が1人というメンバー構成には、疑問が生じる。正しい選択だったのだろうか? ここでは、選出されなかったベストプレイヤーたちを見てみよう。
アイザイア・トーマス
ドリームチームに選ばれなかった選手といえば、まずは殿堂入りしたデトロイト・ピストンズのこのポイントガードから始まる。
当時のアイザイア・トーマスは11年連続でオールスターに選出されていた。だが、1988年から91年まで4年連続となるプレイオフでの対戦から、ジョーダンやシカゴ・ブルズとの激しいライバル関係のさなかにあった。
NBA優勝2回のトーマスはまだ全盛期だっただけに、功績だけに基づいての選出ならトーマスが選ばれていたはずであることは議論の余地がない。
1982年から92年のオールスターにすべて選ばれた選手は、トーマスとジョンソン(ジョンソンは1992年開幕前に引退していたがオールスターゲームには出場)だけだ。バードは11年で選出10回だった。トーマスは、彼らより2歳若い。
トーマスはチームにいるべきだっただけでなく、重要なピースのひとりであるべきだったのではないか、議論となっておかしくない。
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ドミニク・ウィルキンズ
チームの大半が発表されたのは1991-92シーズンが始まる前だったので、リーグの状況を正確に把握するには、1990-91シーズンを振り返らなければならない。であれば、当時、ウィルキンズの存在を否定することは難しい。オールNBAセカンドチームに選ばれ、7シーズン連続で1試合平均25得点超を達成したばかりだったからだ。
ウィルキンズは、ジョーダンを除いたなかで最も生産的だったスコアラーであり、1991-92シーズン中の負傷でいずれにしてもオリンピックに参加できなかったにしても、最初の10選手に簡単に選ばれていてもおかしくなかった。
ドラフトでジョーダンを指名したブルズの元GMであるロッド・ソーンは、ドリームチームの選考委員のひとりだったが、ウィルキンズを検討したと明かしている。
ケビン・ジョンソン
ジョンソンは1990-91シーズンのMVP投票で7位だった。これは、ドリームチームに入らなかった選手の中では最高位である。当時25歳で、選ばれていれば、大学生のレイトナー意外では最年少となっていたジョンソンは、3シーズン連続で20得点&10アシスト超を達成したばかりだった。
ドリームチーム選出までの3シーズンすべてでオールNBAセカンドチームにも選出されていたジョンソンは、実際に選ばれたストックトンに比肩する経歴だった。
ジェームズ・ウォージー
優勝3回のウォージーは当時まだ全盛期にあり、7シーズン連続となるオールスター選出の途中だった。彼のことをもっとよく見るべきなのは当然だ。NBAでの業績リストはピッペンのそれより長かった。
ウォージー | ピッペン | |
年齢 | 30 | 26 |
オールスター選出 | 6 | 1 |
オールNBA選出 | 2 | 0 |
優勝 | 3 | 1 |
シャキール・オニール
1991-92シーズンの大学バスケットボール最優秀選手としてジョン・ウッデン賞を受賞したのはレイトナーだったが、振り返ってみると、シャキール・オニールではなく彼を選んだことを正当化するのは難しい。
1992年のドラフトで全体1位指名された選手だったからというだけでなく、ドリームチームにはロビンソンとユーイングのふたりしかセンターがいなかった。純粋なポジション的見地からすれば、オニールのロスター入りはレイトナーと比較する以前にずっとフィットしていたはずだ。
シャックの存在は新たに興味深い妙案を加えていたはずだ。そしてレイトナーと違い、伝説の非公開スクリメージ(ドリームチームがオリンピック前に非公開で行なった紅白戦)で、彼が重要な役割を担うことがなかったと想像するのは難しい。
後から言わせてもらえるのであれば、やり直せるなら、レイトナーでなくオニールを選ぶのは最も簡単な選択だろう。
原文:The Last Dance: Who was on the Dream Team and the best players who didn't make the cut by Micah Adams/NBA Canada(抄訳)