監督で試合は勝てるのか。答えは「勝てる」。毎年、総試合数のおよそ半分が勝利で、勝率5割台での優勝は少なくない。“新庄劇場”が注目され、指揮監督の存在がクローズアップされている。
BIGBOSSの一言から始まった
「優勝なんか狙わないもん」
この日本ハム新庄剛志監督の言葉で今シーズンは幕を開けたといっていい。当然、さまざまな反応が殺到。生真面目にとらえれば、「勝つことを目的とする」と明記されている野球規則から脱線した発言なのだが、戦力から判断して遠慮したのだろうから目くじらを立てることではない。
むしろ「優勝を狙う」と高言したら「ビッグマウス」になってしまう。なにしろ専門家の今季予想は大半が最下位。開幕から3カード9試合で1勝8敗。新庄、評論家の見立て通りのスタートとなった。
チームの数だけで考えれば、リーグ優勝の確率は6分の1だが、シーズン序盤で他のチームを出し抜けばその確率も上がる。これまで全チームの監督がシーズン前に「優勝を目指す」と意欲を示した理由はそこにある。そんな球界の常識の一つを破ったのが新庄節だった。
ちなみにメジャーリーグのリーグ優勝の確率は15分の1。日本とは比較にならない。
監督の力量を示したヤクルト
けれども監督の采配で勝負が分かれるのも事実である。
直近では昨年が好例。前年最下位のチームがセ、パ両リーグとも優勝という史上初めての出来事だったが、日本シリーズでオリックスに勝ったヤクルトの戦いを振り返ると、高津臣吾監督の指揮が日本一につながった。
ヤクルトは73勝52敗18分け。2位の阪神は77勝56敗10分け。なんと2位チームが4勝も上回っている。何がこんな状況を生み出したのか。
お得意さんを作ったことが大きかった。DeNAに17勝6敗2分けと11もの貯金を稼いだ。これが対阪神戦8勝13敗4分けを埋め合わせする形となった。対する阪神は五分の広島戦以外は4球団に勝ち越すという安定した戦いだった。
次に得失点の違い。ヤクルトは得点625、失点531の差94点。阪神は得点541、失点508で差は33点。攻撃の差を細かく見ると、四球はヤクルト513、阪神406。代打はヤクルトが70安打28打点に対し、阪神は43安打18打点。
そして最大のポイントになったのは中継ぎ投手。ヤクルトがホールドポイント173なのに阪神は110。これが延長なしの特例シーズンを生かして多くの引き分けに持ち込み、僅差で優勝をつかむ要因となった。
ヤクルトは一昨年のシーズン終了後から目標を持った練習を行い、きっちりと準備を整えて本番に臨んだわけである。監督の練習方針、試合での適材適所の采配が下馬評を覆すことになった、といっていいだろう。
球史に残る“魔術師”の采配
監督の采配で球史に残る快勝があった。
三原脩という智将の頭脳的采配である。大洋監督だった1960年、先発メンバー9選手のうち7人に「アテ馬」を使った。終盤の9月22日の中日戦で、試合が始まると3番の近藤和彦と9番の先発投手秋山登を除く選手が交代、3-2で勝った。そして史上初めて最下位からリーグ優勝に結び付けた。まだ投手の予告先発がない時代だったが、それを巧みに生かした策戦だった。
三原はそれだけでなく、この試合中に先発の秋山を、ピンチになると三塁に守備替えし、救援が抑えると再び戻るという奇策を成功させた。このエースの使い方は西鉄監督時代にも稲尾和久を同じように扱った。大リーグで行われたワンポイントリリーフを学び、ルールを熟知した選手起用、試合運びだった。
三原は日本シリーズでも策の妙技を披露した。相手の大毎は「ミサイル打線」の異名をとった強力打線を擁していた。下馬評は「大毎圧勝」。それをすべて1点差で4戦ストレート勝ちという離れ業をやってのけた。監督冥利に尽きる試合運びだった。
三原はアテ馬を「影武者」と称した。その言葉に策を練りに練ったことが分かる。三原の生涯の代名詞となった“魔術師”はこうして世に出た。
打撃タイトル独占、20勝投手なのに5位
三原の大洋と対極にあったのが1970年の東映フライヤーズ(日本ハムの前身)。強力打線が看板で、この年の個人記録は次の通りだった。
- 張本 勲=3割8分3厘、34本塁打、100打点、92得点
- 大杉勝男=3割3分9厘、44本塁打、129打点、84得点
- 大下剛史=3割1厘、32盗塁、72得点
- 金田留広=24勝、防御率2.71
張本は首位打者と最多安打、大杉は本塁打王と打点王と2人で主要打撃4部門を独占。金田は316.1の最多イニングを投げ、最多勝利に1勝少ない勝ち星だった。
これほど選手が大活躍したにもかかわらずチーム成績は54勝70敗6分け、勝率4割3分5厘の5位。首位ロッテから24.5ゲーム差という惨敗で、監督が途中で代わったのも分かる。
東映は翌年、1イニング5打者連続ホームランの記録を作ったほどの超攻撃型のチーム。それを生かせなかった監督の出来、不出来が勝敗を左右した典型的な例だった。
監督の言葉は武器、と同時に諸刃の剣
監督は言葉でもチームを支配する。メディアを仲介して選手に評価などを伝えることが多い。その内容によって選手は奮起し、一方で誤解につながる。
「今年で監督を辞める」という阪神の矢野耀大監督のこのコメントはキャンプイン直前に公になったものだが、開幕9連敗を喫すると、監督交代など外野の声が大きくなった。
一方で、昨年のヤクルト高津監督は「絶対、大丈夫」という言葉で選手を励ました。
ヤクルトと阪神の選手の受け取り方を比べるとどうだろうか。阪神の場合、選手の心中を複雑にしているかも知れない。昔の監督はうならせるコメントが多かった。親分と呼ばれた南海の鶴岡一人監督は言葉遣いがうまかった。
「グラウンドに銭が落ちている」
プロ野球選手は活躍すれば高給を得られる、という現実をそう言い表した。これで野村克也ら選手たちは頑張り、黄金時代を築いている。
「アマチュアは和を持って勝つ。プロは勝って和と成す」
これは名言をいくつも吐いた三原のなかで出色の言葉である。
個人事業主の選手をまとめて戦うのだからプロ野球の監督は難しい。10年以上も球界から離れていた新庄監督はなおさらだと思う。監督の言葉は内容、伝達方法によって反抗をもたらす諸刃の剣の危険性があることは歴史が証明している。
監督の采配はペナントレースを彩る見逃せないポイントである。
著者プロフィール
菅谷 齊(すがや・ひとし)1943年、東京・港区生まれ、法大卒。共同通信で巨人、阪神、大リーグなどを担当。1984年ロサンゼルス五輪特派員。スポーツデータ部長、編集委員。野球殿堂選考代表幹事を務め三井ゴールデングラブ賞設立に尽力。大沢啓二理事長時代の社団・法人野球振興会(プロ野球OBクラブ)事務局長。ビジネススクールのマスコミ講師などを歴任。法政二高が甲子園夏春連覇した時の野球部員。同期に元巨人の柴田勲、後輩に日本人初の大リーガー村上雅則ら。現在は共同通信社友、日本記者クラブ会員、東京プロ野球記者OBクラブ会長。